日蓮宗 不受不施派
私の家の宗派は古来から日蓮宗不受不施派です。次にこの宗派について書きましょう。 《日蓮宗不受不施派》 1、日蓮宗不受不施派の不受不施とは、受けず施さずということで、日蓮宗以外の他宗・不信者(謗法者)の布施供養を受けず、信者は謗法の僧に供養をしないということ。 この制度は日蓮教団の信仰の清浄、純正を守るための宗規であり、信条である。 2、この不受不施義、不受不施制は日蓮宗の形成、発展の初期に朝廷や幕府と接近しはじめたころは、このような公武の権力者は、不受不施制の枠外にあって対象とならなかった。これがいわゆる『王侯除外の不受不施制』であるが、室町期に入ると、日蓮宗の各門流の主力は京都にそそがれて、強力な教団が形成され、その動きが全門流を指導するようになる。この時代になると、本佛釋尊の前には王侯も一般信者も同等にして、差別はないと反省され、王侯除外制は自然に淘汰され、本来の不受不施制が確認されて、 爾来、この伝統的不受不施義は宗祖日蓮以来の古制として厳守されてきたのである。 3、豊臣秀吉の千僧供養 文禄四年(1595)九月、豊臣秀吉は、京都東山に方広寺大仏殿を建て、千僧供養会を営み、先祖六親九族の菩提を弔わんと、諸宗の僧を招いたが、京都日蓮宗にも招請がきた。 この千僧供養会の通知が、京都日蓮宗十六本山に到着してから、各山会合して相談した結果、京都妙覚寺十九世佛性院日奥は『秀吉は他宗の人、謗法の人である。信者でない謗法の人のもよおす法会に出仕し供養を受けることは、日蓮聖人以来の日蓮宗の宗義に反する『堕地獄の行為である』として強硬に反対した。しかし、大多数の日蓮宗の寺院は『そうであっても今秀吉の意向に逆らうことは、日蓮宗の破滅に繋がるかもしれぬ。一度だけ要求どうり出仕し供養を受け、以後断ればよいではないか』といって千僧供養に出仕することに決定した。従って、翌九月二十五日、日奥を除いて総て方広寺大仏殿の開眼供養会に出仕したのである。 しかし、一度出仕して後制法を立てるものが、以後二十年間も大仏供養に出仕したのである。 佛性院日奥は『宗教と政道は別である。例え王侯の命といえども宗義を破ることは、宗門を破滅させることである』と称して、秀吉に『法華宗諫状』を呈して妙覚寺を出寺し、丹波小泉に蟄居したのである。 〔参考文献 宮崎 英修編、「日蓮辞典」東京堂出版。ほか〕 以後、《大坂城対論》慶長四年〔1599〕11月20日、家康は、大坂城に日奥と受派妙顕寺日紹を召して対論させた。《身池対論》受不施派と不受不施との対論。《不受不施寺請禁止令》《寛文の法難》《宝暦の法難》《吉川法難》《不受不施派再興》《妙善寺縁起》などなどを書きたいと思っています。 2013/01/17s_minaga追加: |