「正之」氏サイト中で、「M」と表示したページについて  「日蓮上人の正系」の中で「M」と表示したページはサイト管理人(s_minaga)の作成したページではなく、岡山在住の妙善寺檀家である「正之」氏の作成したページです。
 ページ中に述べられるように、「正之」氏の家は不受不施です。

その「正之」氏はかって「不受不施」に関係したサイトを運営されていました。
そして、拙サイトには「正之」氏のサイトの全てのページにリンクさせていただいていました。
しかし、何らかの事情があったものと思われ、「正之」氏はサイトを閉鎖されました。

そのため「正之」氏のページが表示できなくなった訳ですが、「正之」氏のページをこのまま「消滅したまま」にするには余りに惜しい気がいたします。そこで「正之」氏のサイトにあったページを「独断」で拙サイトに復元させていただく処置を取らせていただきました。(2009/10/09:「正之」氏サイト復元)

 以上のような経緯で、拙サイトに「正之」氏サイトのページを復元させていただいております。
繰り返しになりますが、「日蓮上人の正系」の中で「M」と表示したページが「正之:」氏作成のページです。

本寿院日船聖人の350遠忌に思う

平成十九年は、御先師、本寿院日船聖人の350遠忌に当たります。
そこで、日船聖人の事跡が少ない中、なるべく判る限り書いてみましょう。写真は現在の墓碑です。
彼岸花が

 本寿院日船聖人は、岡山・福渡生まれと言われているが確証はない。實成院日典聖人の弟子・佛性院日奥聖人の兄弟弟子とも云われる。備前蓮昌寺十世、備前妙善寺九世。のち寛永初年に京都妙覚寺に上がり佛性院日奥聖人の薫陶を受けて勉学に励んでいたが、寛永七年(1630)二月、老中酒井雅楽頭邸において身延側(受不施側)と池上側(不受不施側)との対論が開かれた。この対論では理非の採決ではなく上意違背の罪で池上側の負けと採決され寛永七年四月一日池上側の長遠院日樹が信州飯田へ、寂静院日賢は遠江横須賀へ、了心院日弘は伊豆戸田へ、守玄院日領は奥州相良へ、遠壽院日充は奥州岩城へ、修善院日進は信濃上田へ、それぞれ領主お預けの追放流罪。佛性院日奥はこの対論には関係しなかったが、不受不施義の指導者として、また関東不受不施派の雄として、既に同年三月十日妙覚寺で死去していたが、再び対馬へ流罪となった。つまり死後流罪として死者の名誉を奪ったのである。
 本壽院日船聖人は、日奥聖人の死後流罪後、妙覚寺の後を継ぎ京都妙覚寺二十世となったが、幕府は妙覚寺を身延日遠に与える決定をし、日遠が貫首として晋山することに成ったため、日船聖人は寛永七年六月十四日、別記の誓書を連署し、妙覚寺大衆三十余名と共に同年六月三十日、祖像を背負って京都妙覚寺を出寺し、洛北京都紫竹常徳寺に一時隠棲した。
 1、時節到来あるに於ては、異体同心に一間四面の草庵にても妙覚寺を取立て、不受不施の法水を相守り、像師の御作の御影様を安置する処当門家の本山たる可きの事。
 右の条々違背あるに於ては、法華經中一切三宝日蓮薩埵竝に代々列祖の御罰を罷り蒙る可き者也。
 寛永七年庚午六月十四日   日 船 (花押)    大 衆 (花押)
 1881年明治十五年一月 先に落成していた岡山金川の竜華教院を改め、竜華山妙覚寺として公称許可され252年を経て日船聖人の誓書(遺言)が成就したのであります。
 その後の日船聖人は、寛永八年備前に帰られるが、寛永十五年「蓮昌寺再建書」などを著し蓮昌寺の再建に尽くしたりされたが、もはや蓮昌寺も受不施となり、以後各地を流浪し、晩年は故郷福渡に帰り、川口の妙泉庵跡を隠宅とし、この地方の宗義弘法の本拠とした。日船聖人は不受不施派に対する取り調べの厳しさが増すなかで布教活動を続けたが、晩年力尽き福渡で往き倒れ没したと言われています。
 地元に残る伝承では、日船聖人遺骸は、福渡の庄屋江田家の土蔵内で藩吏の目を逃れて、時間をかけて炭火で荼毘に付し、江田家の墓地の一角に葬られたと伝えられています。
 本壽院日船聖人の墓碑について   鎮守の森の山麓から西の旭川を望む緩い傾斜の扇状地には、かって水田が営まれのどかな田園風景が広がり、山裾と畦道の傍らにこの墓碑が祀られています。
 墓碑について  全高165センチ 棹高90センチ 正面に「両寺中興日船上人覚位」側面に「明暦四戊戌四月十二日化」と刻む。
 ※参考 一、日船聖人の没年には、明暦四年四月十二日と万治元年四月十二日と二通り書かれているが、明暦四年七月二十三日に万治と改元されているので、没年の四月十二日は改元前であり、明暦四年四月十二日とすべきであろうと思う。
 ※改元理由。明暦三年一月十八日十九日にわたって江戸市中は大火「明暦の大火」となった。江戸城本丸・二の丸・三の丸も焼失。諸侯の邸宅・旗本屋敷も焼失。そうして十万人以上が焼死体となった。江戸市中は大混乱となる。本郷丸山の本妙寺で、三人の女の施餓鬼のために振袖を焼いたのが゛出火の原因とされる。世に言う「振袖火事」と言う。
(参考文献)
岡山市福渡図書館文化振興室「福渡・山根にある三つの墓石」「日蓮宗不受不施派の受難小史」
開明書院発行「日蓮宗不受不施派讀史年表」東京美術発行「元号辞典」平成七年発行改定新版。
昭和三十四年八月一日 立正護法会発行 「釈日正聖人伝」
 以上など参考にしました。