「正之」氏サイト中で、「M」と表示したページについて  「日蓮上人の正系」の中で「M」と表示したページはサイト管理人(s_minaga)の作成したページではなく、岡山在住の妙善寺檀家である「正之」氏の作成したページです。
 ページ中に述べられるように、「正之」氏の家は不受不施です。

その「正之」氏はかって「不受不施」に関係したサイトを運営されていました。
そして、拙サイトには「正之」氏のサイトの全てのページにリンクさせていただいていました。
しかし、何らかの事情があったものと思われ、「正之」氏はサイトを閉鎖されました。

そのため「正之」氏のページが表示できなくなった訳ですが、「正之」氏のページをこのまま「消滅したまま」にするには余りに惜しい気がいたします。そこで「正之」氏のサイトにあったページを「独断」で拙サイトに復元させていただく処置を取らせていただきました。(2009/10/09:「正之」氏サイト復元)

 以上のような経緯で、拙サイトに「正之」氏サイトのページを復元させていただいております。
繰り返しになりますが、「日蓮上人の正系」の中で「M」と表示したページが「正之:」氏作成のページです。

不受不施派『大阪城対論』

日奥聖人が剥がされた衣です。

慶長四己亥年十一月廿日戌刻至大阪於内府様之御前一宗与日奥対論之時佛法之大魔王邪見熾盛之日奥即座閉口非分相違之候間即剥取之袈裟衣数珠也

《大坂城対論》
 前回の『千僧供養』から四年、慶長四年(1599)十一月、丹波小泉に蟄居中の日奥は、受不施側の上訴により、徳川家康によって大坂城に呼び出され受不施側との対論を命じられた。
 対論といいながら実は家康が『あの強義な日奥に、是非共、一度かの謗施供養を受けさせん』との意図であったろう。
 家康が奉行衆にいわしめた言葉に『…只、一度の出仕は公儀に対して一応の仕付けに過ぎないのであって、強いて、宗派の疵にはならない。諸寺僧との同座を嫌うならば、手人数だけで法事を勤めたらよい。猶一飯を受けること迷惑ならば、只、膳に向かって箸をとるだけでよい。只、一度出仕を勤めよ……』
 これは封建治者の面目をたてて、円満に事を解決しようとの一つの妥協申し込みである。すなわち、この妥協に同意しないならば『天下政道の手始め、万人見せしめのために』その身はもとより、親類・檀那などまで厳重に成敗する──というのである。
 この有り様に、列座の大小名は気色をかえた。日奥に『如何なる国大名も、今内府に対しまいらせては、一言も異議を申す人なし……その上、何れの大名にも内府のこれ程までに言をつくし給える事なし、少しは思い直して、いささか和らぎの御返事然るべし』と意見した程であった。
 先ず対論は例式により、問答の記録をとって、判者を立てて、邪正を決せよ、と主張する日奥に対し、家康も受不施側も、その必要なしとて直ちに答弁を促す。かつ『大仏の出仕を嫌うは、汝一人なり。衆僧は苦しからずと云う。汝若輩として衆議に違するは、法華宗の魔王なり』との家康の言に対し、『仏法の邪正は、人の多きにはよらず。只、経文に叶うを本とせしめ候』と譲らない。
 ここで家康は怒って『かように強義を云う者は天下の大事を引き起こすべし。只、流罪に行うべし』というや、日奥はただちに押し返して『五年以前に寺を罷り出し時より、身命をば既に佛法に奉り候。流罪・死罪の儀今更驚かざる事に候』といって座をたった。かくして、彼一人流罪と定められ袈裟衣を剥がされた。
 (この時剥がされた袈裟衣は、昭和二十六年京都妙顕寺から、岡山県金川町不受不施派本山妙覚寺に返還された。妙覚寺では三百余名の行列で、これを金川駅に迎えた。白い衣の背には破れを避けて、慶長四己亥年十一月廿日戌刻至大阪於内府様之御前一宗与日奥対論之時佛法之大魔王邪見熾盛之日奥即座閉口非分相違之□候間即剥取之袈裟衣珠数也)と記してある。
 かくして、大阪城対論なるものは、受・不受グループの対論というより、家康と日奥の対論というべきものに近い。
 こうして、翌慶長五年五月佛性院日奥は対馬に流罪され、続いて慶長十七年六月、徳川家康日奥の赦免を決定、日奥京都妙覚寺円蔵院に入り、元和二年三月妙覚寺本坊に移る。
          (相葉 伸著 「不受不施派殉教の歴史」大蔵出版 参照)

2013/01/17s_minaga追加:
日奥上人については以下に関連の記述がある。
 →仏性院日奥上人