不受不施派『身池対論』
このページは『身池対論(身延・受不施側と池上本門寺・不受不施派)との対論』について書きます。 1、寛永六年から七年にかけて,受不施側、身延日暹らは度々幕府に、不受不施側、池上本門寺十六世長遠院日樹らを訴えていた。 これは当時、関東諸山の不受派は「千僧供養を受けた身延は謗法の地となった。参詣した者は地獄に落ちる」と受派を攻撃・批判したので、参詣人は半減したと云われている。 幕府は寛永七年(1630)二月、老中酒井雅楽頭邸において、身延側と池上側の対論を行った。 奉行・判者側は、老中 酒井雅楽頭ほか幕府宗政顧問 天台宗南光坊天海大僧正、臨済宗南禅寺崇伝長老。 身延側は、日暹ほか六名。池上側は、池上日樹・中山日賢・平賀日弘・小西日領・中村日充・碑文谷日進などであった。 2、対論の結果は、各問答かなり長時間に及び、真実は、池上側の理が通ったものであったが、『今日は理非の沙汰がない。後日、三問三答の記録をもって提示されるよう…』と、この日裁断がなかった。 以後、双方書面をもって問答を重ねたが、池上側の問いに、身延側の答えが無かったため、池上側日樹聖人は奉行所に対し、『身延の非十二カ条』の答書催促を訴えた。(普通 問いに対して答えが無いということは、答えられない方の負けということだが……) 3、同年四月一日幕府は、対論の理非採決ではなく、『上意違背』の罪で佛性院日奥は再び対馬へ、長遠院日樹は信州飯田へ、寂静院日賢(飯高・松崎・中村三談林能化)は遠江横須賀、了心院日弘(平賀本土寺十五世)は伊豆戸田へ、守玄院日領(小松原鏡忍寺九世・小湊誕生寺十四世・小西談林能化)は奥州相良へ、遠寿院日充(能登滝谷妙成寺十二世)は奥州岩城へ、修善院日進(武蔵碑文谷法華寺十一世・上総大野光福寺十世)は信濃上田へそれぞれ追放(各国領主お預け)の処分を命じた。 これは、身池対論の宗論の判定ではなく、幕府の『宗教を政治下に屈服・順応させる宗教政策』と、幕府に順応した身延側の暗躍によるものであろう。 4、佛性院日奥聖人(妙覚寺十九世)は、この時既に寛永七年三月十日、妙覚寺で没しているから、死者を流罪として、名誉を奪ったのである。日奥聖人は、この身池対論には直接参加していないが、不受不施義に大きな影響を与えるものとして、関東不受不施派の指導者として、死後、再び流罪されたのであろう。 日奥聖人は以後、日蓮宗不受不施派の祖(中祖)として尊崇され、他の六聖人は『前六聖人』として尊称されている。妙善寺では、他の御先師と共に、これらの墓所へ順次『団参』を行っているが、この六聖人の中で遠寿院日充(能登滝谷妙成寺十二世)聖人の流罪先の墓所が判明しないのが残念であります。 なお、長遠院日樹聖人は信州飯田へ流罪されたため、池上本門寺十六世を除歴されたが、本門寺七十四世謙光院日慎は、昭和六年日樹聖人三百遠忌にあたり、門末会議の結果、長遠院日樹を復歴したということです。(池上本門寺歴代として、第十五世と十六世の間に日樹聖人が復歴として記載されているそうです) 以上 (参考文献 昭和三十六年八月三十日 日樹聖人遺徳顕彰会発行・花田一重編著「日樹聖人伝」 昭和五十三年七月七日 開明書院 長光徳和・妻鹿淳子著。「日蓮宗不受不施派讀史年表」) 2013/01/17s_minaga追加: |