「正之」氏サイト中で、「M」と表示したページについて  「日蓮上人の正系」の中で「M」と表示したページはサイト管理人(s_minaga)の作成したページではなく、岡山在住の妙善寺檀家である「正之」氏の作成したページです。
 ページ中に述べられるように、「正之」氏の家は不受不施です。

その「正之」氏はかって「不受不施」に関係したサイトを運営されていました。
そして、拙サイトには「正之」氏のサイトの全てのページにリンクさせていただいていました。
しかし、何らかの事情があったものと思われ、「正之」氏はサイトを閉鎖されました。

そのため「正之」氏のページが表示できなくなった訳ですが、「正之」氏のページをこのまま「消滅したまま」にするには余りに惜しい気がいたします。そこで「正之」氏のサイトにあったページを「独断」で拙サイトに復元させていただく処置を取らせていただきました。(2009/10/09:「正之」氏サイト復元)

 以上のような経緯で、拙サイトに「正之」氏サイトのページを復元させていただいております。
繰り返しになりますが、「日蓮上人の正系」の中で「M」と表示したページが「正之:」氏作成のページです。

妙善寺の歴代と由来

岡山市津島の鷲林山妙善寺の歴代と妙善寺由来について書きます。

妙善寺の歴代は、開基大覚大僧正、第二世龍華院日実聖人、第三世正学院日厳聖人、第四世日能聖人、第五世日宗聖人、第六世妙法院日応聖人、第七世日韻聖人、第八世性如院日魏聖人、第九世本寿院日船聖人、第十世覚隆院日通聖人、第十一世高照院日意聖人、第十二世立円院日信聖人、第十三世通性院日念聖人、第十四世相如院日是聖人、第十五世深行院日量聖人、第十六世教法院日明聖人、第十七世観光院日宣聖人、第十八世無量院日至聖人、第十九世友善院日護聖人、第二十世照光院日恵聖人、第二十一世十妙院日徳聖人、第二十二世宣妙院日正大聖人、第二十三世遠成院日解聖人、第二十四世詮量院日壽聖人、第二十五世学行院日秀聖人、第二十六世真正院日高聖人、第二十七世宣正院日学聖人、第二十八世 現法主一樹院日行上人。
 これから妙善寺由来を書きます。
 鷲林山妙善寺と称し、日蓮大聖人図顕の大曼荼羅を本尊とする日蓮宗不受不施派の寺である。もとこの地に弘法大師の開基と伝える福輪寺という真言宗の寺院があったが、正慶五年(一三三六)四月二十八日京都妙顕寺二世妙実(大覚大僧正)の巡錫があり、時の住職良遊は法論のすえ妙実に帰依し、真言宗を改めて日蓮宗とし寺号を妙善寺と称した。江戸時代に入り寛文五年の不受不施派禁制に遭い妙善寺は無住となり、宝永五年一切の堂宇を廃棄するに至った。 
 明治九年四月釈日正の請願により不受不施派は再興の日を迎え、金川に妙覚寺を建てて本山とした。ついで明治三十年に岡山の妙善寺を再興、旧地に客殿、
庫裡、書院、宝蔵などを順次建築し、大正十四年五月に現在の本堂を再建して一山の景観を整えた。つぎに本堂落成の日に出した「妙善寺本堂再建落慶由来」と題した報告文の大要を掲げておく、本報告文は妙善寺の興廃を述べただけでなく、不受不施派受難史を略述している。
 ★妙善寺本堂再建落慶由来
 当山ハ元真言宗福輪寺タリ、其縁起ヲ詳ニセズ、寺主良祐(注 良遊とも)大覚大僧正ノ教化ニ信伏シテ遂ニ弟子トナリ寺ヲ改メテ日蓮法華宗ノ道場トナシタリ。実ニ大僧正中国開教ノ最初タリ、故ニ当山ヲ大覚大僧正初転法輪ノ道場ト称ス。
 彼ノ法輪石新九郎田等ノ遺跡猶存セリ。当時京都ニ於テハ日像菩薩帝都弘通ノ途ヤゝ其緒ニツキシヲ以テ弟子妙実(大覚大僧正)ヲ遣ハシテ三備ノ教田ヲ開拓セシメラレタリ、時偶々国歩艱難ニシテ元弘二年三月後醍醐天皇隠岐遷幸ノ一大下克上起リタリ、(中略)同年五月大僧正津島ニ來錫アリ、古来大僧正ヲバ後醍醐天皇ノ皇子ト称ス。爾来日実聖人等富山城主松田元成の外護ニヨリテ教勢愈盛トナレリ、降テ日韻、日魏、日船ノ三聖ノ時ハ特ニ徳化潤沢タリ、然ニ彼ノ豊公祖先供養ノ為ノ千僧供養事件起リテ宗内遂ニ受不施、不受不施ノ二派トナル。元来不受不施ハ日蓮法華宗各門流ノ通軌タリ、而テ二派対峙ノ暁寛文五年徳川幕府ハ土水供養ノ義ヲ固執シテ忽チ不受不施ヲ禁止セリ。加フルニ池田藩ハ主義トシテ心学ヲ主張シ又神道ヲ鼓吹シテ、仏教ヲ圧抑シタリ。為ニ当山日精聖人書ヲ裁シテ池田候ヲ諌メタリ、其言容レラレズ遂ニ徳川幕府ノ政策ト相待ッテ仏堂寺院ヲ破却スルニ至レリ。
 当寺モ亦其厄ヲ蒙レリ、不幸信徒等彼ノ日像菩薩ノ大曼荼羅ヲ始メ数十ノ什宝ヲバ池田家ニ預ケテ時ノ至ルヲ待テリ、又竊カニ唯紫庵ヲ結ビテ其法灯ヲ相続シ二百餘年、跼(きょく)天(てん)蹐(せき)地(ち)以テ其信仰ヲ持続ス(中略)維新ノ大業ナルヤ明治天皇政府ノ下ニ釈日正聖人不受不施ノ再興ヲ請願シテ遂ニ派名再興布教公許ノ恩典ヲ蒙リタリ。此時既ニ本堂再建ノ義起リタルモ時機未ダ至ラズ、大正元年ニ至リテ山主日寿聖人再建ノ発願主トナリ信徒之ニ応ジテ砕身粉骨微ヲ積ミ細ヲ重ネテ経営苦心ノ余リ茲ニ壮麗ナル本堂ヲ見ルコトヲ得ルニ至ル。実ニ二百五十余年ノ素願ヲ成就シタルモノト謂フベシ。(大正十四年五月七日)
 この本堂は五間四面(柱間)入母屋造 本瓦葺の大建築で、一段高い位置に南面している。他の客殿・庫裡・書院・宝蔵などは明治三十年にこの寺を再興した当時の建物である。

  昭和四十三年三月三十日発行 編集者 岡山市史編集委員会

                発行者 岡山市役所
               「岡山市史 宗教・教育編」から抜萃した。
この本堂も約80年の歳月に老朽化が激しく、平成17年8月18日本堂内外の大修理が完成し、その開堂供養が行われその華麗な威容が現れました。その威容を標題にしました。