大覚大僧正と妙善寺あれこれ
上記の写真は「大覚大僧正袈裟懸けの岩と新九郎田の石」の写真です。そこでその由来を書いてみます。 大覚大僧正は、京都妙顕寺開基日像聖人の弟子で大覚妙実といったが、師日像聖人の三備(備前、備中、備後)への法華経弘通の命により、元弘二年(一三三二年)のある日備前に來錫せられ、当時は田圃道であった座主川用水沿いの道の津島あたりを歩かれて路傍の石に腰掛けられて休まれていた。 おりから付近の田圃では田植えの最中で、大覚妙実は多くの男女が田植え唄を節おもしろく歌いながら、前へ前へと進んでいるのを見ておられたが、やがて田の畔に立って「おうい、おうい、田植え唄、ちょっと休みっしゃれい。」と呼びかけた。 百姓たちは思わず腰を伸ばし、振り向くと、頑丈な身体つきの行脚僧が、にこにこ笑いながら立っている。 この田の持ち主新九郎は泥手をもみ合わせながら「なんでござんすりゃ」と問い返した。 大覚妙実は「拙僧がよい唄を教えて進ぜる。この唄を歌いながら後すざりしつつ苗を植えなされ、そうすれば田植えも早くできるし稲もよく実る」と声をはり上げて「南無妙法蓮華經」と節おもしろく唱えて聞かせた。 後退法の田植えにすっかり感心した百姓たちは、一も二もなく「南無妙法蓮華經」を唱えだしたばかりか、大覚妙実に津島の長者の家に滞在してもらい、教化を受けたという。 その滞在屋敷は古い墓地にかわっているが、今も大覚屋敷と呼ばれ、附近に新九郎田もあれば、腰懸け石も残っている。 その後の大覚妙実は、古来の往還(福輪寺畷)の北の山中にあった真言宗福輪寺へ赴き、住職良遊と法論の末、住職良遊は大覚妙実に帰依し日蓮宗鷲林山妙善寺と改め、富山城主松田左近将監の外護をえて、 津島市場に移転し、以後教勢いよいよ盛んとなり、降って日韻、日魏、日船三聖の時を経て、寛文の法難に至るまで教勢益々盛んであったが、寛文六年の備前藩池田光政の「廃佛向儒策(仏教を廃し神道を奨励する)」により妙善寺は無住となり、宝永五年(一七〇八年)一切の堂宇を廃棄した。 以来百八十九年、明治三十年(一八九七年)岡山に妙善寺を再興し、旧屋敷に客殿、庫裡、書院、宝蔵などを順次建築し、大正十四年五月現在の本堂を再建して一山の景観を整えた。(平成十七年八月十八日本堂の大改修を行った) 前に書いた「大覚大僧正腰掛け石」や「大覚大僧正袈裟懸けの岩、新九郎石」「やすなの井戸」などは、古来の田圃道である座主川用水沿いの道(岡大農学部農場附近)にあったものを何時のころか、妙善寺参道脇に移転されて保存されていますが、その経緯も由来も明らかでありません。しかし、明治四十年岡山津島に、陸軍第十七師団が創設され、座主川沿いの南北に順次拡大開発されたが、これらに際して妙善寺参道脇に移転されたものと推測され、これは明治四十年から大正中期ごろまでではないかと思われるが正確には判らない事が多い。 さて、大覚妙実は、日像聖人の弟子でしたが、日像聖人が康永元年(一三四二年)遷化のあと、京都妙顕寺二世を継がれ、数々の貢献をされましたが、延文三年(一三五八年)京都を襲った旱魃に際し、後光厳天皇の詔勅により降雨の祈祷を命ぜられ「南無妙法蓮華經」と読誦し祈祷したところ即座に降雨となり、この功により、日蓮聖人に大菩薩号を、日朗、日像両聖人に菩薩号を、大覚妙実には大僧正号を賜い、これよりのち「大覚大僧正」と称せられるようになった。ということです。 大覚大僧正は、その高名さに比して、その出生・墓所などの詳細が不明なことが多いのですが、関白近衛経忠の子とも、後醍醐天皇の皇子ともいわれ、過去帳によれば、貞治三年(一三六四年)五月十三日遷化となっていますが、備前・備中・備後など各地を巡錫されること約十年。各地に残る《題目石》などによってその跡を知ることが出来る程度です。 これも南北朝時代の戦乱によることが多いと思われます。 この参考文献は、「昭和四十八年一月吉日津島学区教育振興会発行【津島のむかし】」「津島コミニティ協議会発行【自然と歴史のふるさとめぐり、津島】」そのほか京都妙顕寺「寺史」などから採集しました。 |