「正之」氏サイト中で、「M」と表示したページについて  「日蓮上人の正系」の中で「M」と表示したページはサイト管理人(s_minaga)の作成したページではなく、岡山在住の妙善寺檀家である「正之」氏の作成したページです。
 ページ中に述べられるように、「正之」氏の家は不受不施です。

その「正之」氏はかって「不受不施」に関係したサイトを運営されていました。
そして、拙サイトには「正之」氏のサイトの全てのページにリンクさせていただいていました。
しかし、何らかの事情があったものと思われ、「正之」氏はサイトを閉鎖されました。

そのため「正之」氏のページが表示できなくなった訳ですが、「正之」氏のページをこのまま「消滅したまま」にするには余りに惜しい気がいたします。そこで「正之」氏のサイトにあったページを「独断」で拙サイトに復元させていただく処置を取らせていただきました。(2009/10/09:「正之」氏サイト復元)

 以上のような経緯で、拙サイトに「正之」氏サイトのページを復元させていただいております。
繰り返しになりますが、「日蓮上人の正系」の中で「M」と表示したページが「正之:」氏作成のページです。

寛文の法難と矢田部六人衆について

左の写真は矢田部六人衆と二十八人衆の供養塔です。毎年新暦七月二十七日には地元は勿論各地からの参詣者で賑わいます。和気郡旧佐伯町矢田部です。

 不受不施派の法難はご存知の通り、豊臣秀吉の「千僧供養会」から始まったのですが、戦国の動乱を武力で統一した秀吉及びその後を継ぎ、封建武断政治の基礎を築こうとする家康と「法華経を信じない者には供養せず、布施を受けず」「正法を誹謗する者に与せず、しかも謗法の罪を見て放置しない」「時すでに法華の代なり、國また法華の機なり。然ればすなわち天下を守る佛法はひとり法華宗に限るべし。佛法を助くる國主は専ら法華経を崇めたもうべし」と日蓮聖人以来の不受不施義を主張する日奥聖人とは、基本的に対立し、やがて武力を背景にした法難を受ける素地があった訳です。
 その後の幕府は、大坂城対論、身池対論に続き、受不施側の不受不施禁止の請願を受けて、寛文五年(1665年)三月「不受不施派寺請禁止令」を発し、不受不施派寺院より寺請の特権を剥奪した。さらに同年十一月、不受不施派の本寺三ケ寺を召し出し、諸寺に寺領を与えて「此度御朱印頂戴仕候儀御供養ト奉存候。不受不施ノ意得トハ格別ニテ御座候(寺領は御供養として有難く頂戴いたします)」との手形を書くべき旨告げ、寛文六年にはすべて「飲水行路」また「國主の供養」であるとの新解釈を幕府自ら下した。
 これは不受不施派の寺院・僧侶にとって致命的な暴令であり、ここに不受不施派は、受領手形を提出した者と提出を拒否した者とに分裂した。
 提出した者は悲田不受不施派を名乗り暫く後受不施となり、拒否した1、生知院日述(平賀本土寺二十一世)は伊予吉田伊達宮内少輔へお預け 2、義辧院日尭(上総興津妙覚寺歴代)は讃岐丸亀京極百助へお預け 3、智照院日了(雑司が谷法明寺十五世)は讃岐丸亀京極百助へお預け 4、明静院日浣(玉造談林五世・津山顕性寺歴代)は肥後人吉相良遠江守お預け 5、長遠院日庭(江戸青山自證寺三世)は佐渡に流刑さる。6、安國院日講(野呂妙興寺能化)は日向砂土原島津飛騨守へお預け。とそれぞれの流罪地へ追放の処分を受けた。これらは後(のち)六聖人として尊崇されている。
 同時に、備前岡山藩では藩主池田光政が「廃佛向儒策」を行い、佛教を廃し神道・神職請けを奨励し、幕府の意を受けて不受不施派の寺三百十一ケ寺を廃し、僧五百八十五人を追放した。
 このような過酷な法難が相次ぎ、寛文六年(1666年)には「真如院妙浄日能」尼が備前父々井村で断食入定するなど抗議が続いていた。
 このような物情騒然の中、寛文八年夏備前磐梨郡佐伯村の本久寺出寺僧の妙覚院日閑は、寺を逃れ各地を流浪していたが、密かに実家近くの《草庵》を隠れ家として地元の信者に匿われていたが、遂に発見され、日閑ほか二人が岡山へ護送された。
 これを伝え聞いた地元の信者たちは、折からの田植えの中を苗を打ち捨てて後を追い、共に捕らえられた。
 岡山に着いた信者達は、三名の釈放を要求する言葉と共に《然れども代々不受不施にて御座候えば、ただいま他宗に罷り成り、他宗の手形取り差し出し候事は罷り成らざる由》申し立てているのである。
 おそらく役人の方から、他宗への轉宗を条件に、三人を釈放しないでもないとの意向がほのめかされたのであろうが、彼等はキッパリ拒否したのであろう。
 これによって、日閑ら六名は、寛文八年六月十九日〔新暦七月二十七日〕岡山柳原刑場で斬首の刑に処せられたのである。
 1、妙覚院日閑 佐伯本久寺出寺僧。  寛文八年六月十九日寂。二十八歳。
 2、河本仁兵衛 〔蓮通院日達〕寛文八年六月十九日寂。日閑兄 三十一歳とも。
 3、河本五兵衛 〔蓮光院日長〕 寛文八年六月十九日寂。日閑父 六十五歳。
 4、河本喜右衛門〔通円院日教〕 寛文八年六月十九日寂。    三十九歳。
 5、松田五郎衛門〔清覚院日有〕 寛文八年六月十九日寂。    二十七歳。
 6、花房七太夫 〔法雲院日祐〕 寛文八年六月十九日寂。    三十一歳。
 その他地元親類縁者男女子供に至るまで二十八人が国外追放の処分を受けたが、中には二歳の子供まで含まれていたのである。
 これらの人々のその後の消息は不明であるが、伝を求めて千葉県〔上総・下総〕の方に行ったとの言い伝えもあるが良く判っていない。
 この岡山市の柳原刑場跡は現在は非常に変化して、昔の面影はないが、現地に昭和四十二年二月二十六日に日学聖人が、六人衆三百遠忌に当たり供養塔を建立されて、地元講社の人々によって香華が絶えないのである。南無妙法蓮華經 合掌。