「正之」氏サイト中で、「M」と表示したページについて  「日蓮上人の正系」の中で「M」と表示したページはサイト管理人(s_minaga)の作成したページではなく、岡山在住の妙善寺檀家である「正之」氏の作成したページです。
 ページ中に述べられるように、「正之」氏の家は不受不施です。

その「正之」氏はかって「不受不施」に関係したサイトを運営されていました。
そして、拙サイトには「正之」氏のサイトの全てのページにリンクさせていただいていました。
しかし、何らかの事情があったものと思われ、「正之」氏はサイトを閉鎖されました。

そのため「正之」氏のページが表示できなくなった訳ですが、「正之」氏のページをこのまま「消滅したまま」にするには余りに惜しい気がいたします。そこで「正之」氏のサイトにあったページを「独断」で拙サイトに復元させていただく処置を取らせていただきました。(2009/10/09:「正之」氏サイト復元)

 以上のような経緯で、拙サイトに「正之」氏サイトのページを復元させていただいております。
繰り返しになりますが、「日蓮上人の正系」の中で「M」と表示したページが「正之:」氏作成のページです。

寛文の法難の福田五人衆の遺跡について

左の写真は、岡山県津山市福田で断食殉死した「福田五衆」の霊地の写真です。
中は真っ暗ですが、南無妙法蓮華經のお題目が奇麗な文字で刻まれています。

 上の写真は岡山県津山市佐良山の福田の山峡にある佐良山古墳群の一つ、東塚・西塚と稱せられる二つの横穴式円墳が殉教五人衆の聖地です。その一つ東塚の写真です。
 幕府はかねて、大坂城対論・身池対論などで不受不施派を弾圧していたが、度重なる受不施側の不受不施禁止の請願・訴えにより、寛文五年(1655)三月不受不施派寺請禁止令を発し、不受不施派寺院より寺請の特権を剥奪した。このことは不受不施派寺院の寺請の特権の喪失であって、これだけで既にこの時代の寺院として相当の処罰を受けたも同然である。
【公儀ヘ不致書物不受不施之日蓮宗寺請取ベカラズ。町中五人組切ニ立会相改之借家タナカリ借地者ハ内地主ヨリ改之無紛様ニ旦那寺ト引合吟味仕寺請状可取事】
 ところが同年十一月さらに、幕府は不受不施の本寺三カ寺を公儀に召し出し、諸寺に寺領を与えて、強制的に寺領は御供養として有難く頂戴いたします(「此度御朱印頂戴仕候儀御供養ト奉存候。不受不施ノ意得トワ格別ニテ御座候」)との手形を書くべき旨告げ、すべて「飲水行路」また「国主ノ供養」であるとの新解釈を幕府自ら下した。
 この暴令に対し性知院日述らは「上意背きがたしといえども、亦宗法破り難き間、手形すまじき由…」申し出て手形提出を拒否したのである。これによって平賀本土寺性知院日述・上総奥津妙覚寺義辨院日尭・雑司が谷法明寺智照院日了・津山顕性寺明静院日浣らが国内各地に流罪され、のちに江戸青山自證寺長遠院日庭・野呂妙興寺安国院日講らが同じく流罪された。〖後六聖人〗
 一方備前藩では藩主池田光政にる仏教を廃し神道を奨励する政策により、不受不施寺院が多数破却され、不受不施僧の多数が追放されるという弾圧が行われ、これは全国でも希有な出来事であった。
 これにより不受不施の僧俗は、「飲水行路みな国主の供養」となれば、水も飲めず道も歩けないという人として生活出来ない事となり、これに対する声として各地で抗議や断食入定するなどの事件が頻発した。
先ず寛文六年には真如院妙淨日能尼の断食入定・寛文八年の矢田部六人衆の処刑・追放、同年頃の善興院日圓聖人の土中入定など数多くありました。
 寛文九年二月一日卯の刻(午前六時)佐伯本久寺を出寺した堅住院日勢は同行者 妙勢日須・妙意日現・妙定日意・妙現日定の四人のうら若い女性とともにこの過酷な禁令に憤激して断食死を切望した人達とともに、美作国福田の山峡の古墳に向かってどこをどう歩いたか、恐らく草に臥し薮に隠れ、ひたすら捕吏や人目を忍んで路もない獣道などを選んでたどる困難な潜行であったろう。
 「捨身行者捨書(遺書)」によれば、寺から僅か一里半ばかりの美作国福田村の佐良山古墳群の中の一つの円墳(東塚)にたどり着いたのは申の刻頃であったようだ。僅か一時間半の道を直路を行ったのではない。息を殺して何時間も同じ場所に潜んだり、迂回したり、時には逆戻りしたかも知れない。とにかく約十時間もかかってたどり着いて、そこを寂光の霊山として悦び入り、曼荼羅をかけ、花・香・灯を供え瞑目して合掌し声を合わせて題目を唱えたという。この瞬間から再び世間に帰ることのない餓死への道が、無抵抗の抵抗として始まったのである。
  日勢はこの間襲いくる冷気と玄室の天井岩の継ぎ目から滴り落ちる水滴を避けながら次第に衰えていく体力と視力を奮い起こして奥壁の一枚岩に題目を彫り続けたという。今日行って見ると見事な南無妙法蓮華經の七文字が刻まれているが、もとより満足な道具とてないわけであるから、後の信徒が補い追刻したものとみえる。
 天井岩の継ぎ目から滴り落ちる水滴が多ければ飢餓をうるおすことになるが、その代わり座臥を濡らし冷湿に苦しみ、滴りが涸れれば直ちに飢餓が迫る。しかも断食も二月一日数えて五十日にも及べば起居は思うに任せず彼らは大体臥位のままで、唱える題目とて口の中だけ恐らく声になるほどの気力はもはやなくなっていたであろう。
 そうした女性たちの渇きを救うために男性である日勢が水を求めていざり出たというもありうる事であり、その場合、既に衰弱しきった身の転落死はありうる事である。こんなわけで日勢の入水は30メートルほど前の谷川へ女性たちへの水を求めて行き、その谷川へ転落死したものであろうとの後世の言い伝えが正しいと思われる。
 貞享三年(1686)覚隆院日通筆の過去帳(妙覚寺所蔵)によれば
 旧暦三月十三日    堅住院日勢    四十三歳  水入り也
 旧暦三月十八日    玄通院日円妙意  三十四歳  不食四十八日
 旧暦三月二十一日   深入院日見妙定  二十一歳  不食五十一日
 旧暦三月二十四日   龍光院日珠妙現  二十二歳  不食五十四日
 旧暦三月二十六日   偉コ院日信妙勢  四十二歳  不食五十六日
 こうして堅住院日勢を始め四女性はこの福田の山峡の円墳の中でお題目を唱題しながら断食入定したのである。幕府のこの暴令に無抵抗の抵抗として果てたこの信仰の固さには瞠目すべきものがあると驚かされるものです。合掌… 
 【参考】
 堅住院日勢の遺書とされる『捨身行者捨書』にはこれを筆写した「知円」なるものの署名があり、日付は「寛文九酉歴未刻に筆畢」とあって日付が無いのが遺憾だが、「悪筆なりといえども御所望によってこれを写すものなり」とあるところをみると、この古墳を時に訪れる信徒がおり、日勢の御所望でその遺書の口述を筆記し、また彼らの死を見届けたものがいたらしい。
 またさらに続いて「将又後見之人々日悟と一辺回向奉頼入候也」(後にこの遺書を読む人はどうぞ日悟と共に一ぺんの回向をお頼み申し上げます。)という意味であって、日悟と知円は同一人あることがはっきりしてくる。
 このような人がいなければ堅住院日勢の入水のことも、それ以後の尼たちの死の期日を後日に伝え残すことは出来なかった訳である。
 その後の不受不施派の苦難・法難は200年余の後の世まで、宝暦・元禄・天保などの法難などに苦しめられながら内信により発展して行くのです。 
大変長くなりました。ごめん下さい。
 【参考文献】
 昭和51年8月15日発行 大蔵出版株式会社  著者 相葉 伸 その他を参考にしました。
 有り難うございました。